セルフクエスチョン

 1、今まで書いた欠片から、言葉を集めてもらえますか?


-今日のこと(日記)より-


頭、白紙、値、意味、枠、物差し、同じ道、遺品、瞳孔、ひたむき、ディス、色の中、1コマ、空、役割、変化、信頼、固執、狭さ、繋がり、距離、だます、隙、蹴飛ばす、ネタ、落とす、理解、埋め尽くす、満たす、思考、動機、制御、限界、肉体、可能性、選択、支出、独、手法、偏り、中間、順位、価値観、口、走る、シンドローム、見る、リアリティ、ビジネス、躍る、地域、その場しのぎ、ネットワーク、接触、話す、可動域、反応、角度、損得、感情、推し量る、緊張、経緯、姿勢、花火、絶景、侵蝕、非日常、テンポ、ズレ、怒り、溜まる、引っ込む、発散、感情、食べる、解消、旨く、虚実、消滅、揺らす、身、嘘、誠、手を打つ、突き詰める、消化、昼、家族、誰か、自己、外的形態、体験、受動的、操り、同調、意識、散漫、先、視点、映画、無、技、失敗、違う、勝負、装い、集団行動、気配、察する、心理、自我、欲望、自意識、普遍性、裏返し、成り立つ、心臓、自由、惹かれる、核、圧倒的、興味、能力、器、無意味、壊す、相性、育児、快適、一緒、友、比重、妨げ、預ける、抗い、幸せ、断定、効能、鳥、障害、高揚、魅惑、誇張、うつろ、喜び、裸、日用品、誘導、特別、抱く、瞬間、築く、存在、透明、根っこ、顕著、純粋、神秘、出逢い、響き、好奇心、怖さ、軽さ、不確かさ、陰、果てしない、意味、標、拠り所、堂々、奇跡、暇、小さな国、他、大人、妄想、縋る、慣れ、欲求、瞑る、境界、大事、無駄、期待、資源、楽、遊び、疎遠、連絡、呼応、必要、傍観、移動、試す、点、貰う、両立、知る、届く、押し殺す、知る、素直、元に戻る、円、有り様、発見、意志、面白い、憧れ、隙、陳腐、交差点、しばる、努力、粘る、共感、点、糸、投げる、待つ



多く出て来た言葉はありましたか?


繋がる、家族、嘘、距離、限界、変化、身体、気、満たす、現実、普遍、踊り、自由、光景、価値、理解、可能、思考、関わり、信頼、目、胸、死、必要、空、食べる



今考えている言葉は何ですか?


距離



それは何故ですか?


距離で計れる物事が多いと思うので。誰かと繋がる関係性、可能性を最近は考えている気がします。「点と点が無数にあるなら、この世は距離で推し測れる」「その距離の限界値に立つと見えなくなる」という2つを考えていました。


説明出来ないこと、刹那的なことに惹かれると共に、何かと繋がりたい意識があるのだと思います。


根底にあるのは独りということで、それを受け入れる方法、または抗うことをしているのかもしれません。



今目の前にある言葉はなんですか?


最近聞いた「intuition」です。直観として訳されて、直接的に全体及び本質を掴む認識能力を指すのだそうです。まだ知覚することを分解して丁寧に一つずつ考えていなかったので、まだこの言葉はわかりません。



これから向かう先を言葉で示すとしたら、どういった言葉が浮かびますか?


家族、踊りの二つです。



その二つの言葉は繋がるのですか?


はい。核であり、愛のように大きな言葉であってほしいと思います。



どうして言葉を使うと思いますか?


伝えられないで、飲み込む言葉の方が多い気がします。本当に人と繋がる為には手段は幾つかあって、言葉のボリュームによって相手に伝わる速度に変化が出てきます。


身体の中に言葉は眠っていて、それを呼び起こす作業を毎日しているのだと思います。



真実という言葉はどこにありますか?


自分の内だけを探していては得ることが出来ない言葉だと思います。自分という存在を確かめるために他者があるのか、他者が自分であるのか、真実はそのどちらでもなくてただあるということだけな気がします。



ここからどう言葉を紡ぎますか?


残す言葉ではなく、先にむかう新しい言葉に出逢えたらと思います。


これは、質問に対する回答でなくていいと思っています。


言葉は造築を繰り返していて、まだ足りていない言葉があると物足りなさを感じることもありますが、


エスペラントもバベルの塔の時代にも今は興味がありません。


言葉の違いや、言葉の間にあるものの方が世界に広がりを持たせるように思うからです。


人に合わす必要はなく、ただ言葉というものを吐く。その言葉は人にも自分にも返ってくるものと思っていれば、言葉は大事にされるのではないかと思います。



2、-明日-と書き記した項目から、言葉をまた選んで下さい。


明日の色


生きるとはどういうものをまとって生息しているのだろうか


休息することをだれにも確認すらしないままに、もう


明日の生は広がり続けている。



優しい時間


一過性ではない時間



意識が生まれる前に身体のサイクルは繰り返されている


個体の肉体である前に、人の身体は組織に組み込まれている


人が忘れつつあるシステムの中に、生の営みがあり


無意識の内にそれはひっそりと行なわれている



世界の面の皮をひんめくって


血を流す怪モノでありたい


嘘にも真にも 誠実でありたい


己を消し去ったあとにも


一個の何かでありたい



残像、思い通りに消すことのできない映像的記憶



単純にさえ 進めないなら


多くの複雑さを持って 沼に堕ちよう


あらゆる矛盾という性質の


生物のメカニズム



誰にもよりかかることなく


立つことの自由さのほうが


重い



これを書いたことを覚えていますか?


自分で書いた気がしない程、覚えていません。



今はこれをどう思いますか?


二つのことを同時に考えていたり、複雑な状況にあったのかと思います。


「嘘にも真にも 誠実でありたい」と書いている部分が今と違います。


日常の中で嘘をついていたりするのに、踊りでは嘘をつきたくないと最近は書いていました。


矛盾しているなと思っていたのですが、この時には両方肯定出来ていたのだなと読み取れます。嘘を毒としていたのが、最近なのかもしれません。



嘘は嫌なことですか?


自分が思っていることと違うことをするのが嫌だなと思うことがあります。また人が本当に言いたいことではないことを言ってる時に違和感があります。それが悪いということではありません。


もっとまっすぐにシンプルに生きればいいのにと、読んでいて思います。嘘、真のどちらも内包しているものであるから、そこで戸惑うこともなくしていけばいいのかもしれません。信頼を示す為の嘘も許容しながら、二元論で物事を考えないようにしていきたいと思います。



主観で動くことについてどう思いますか?


誰かの為であっても主観で動くことで、何かを見落としていたり誰かを傷付けたりしていることもあると思います。その時の状況を読む前に動いている事も多々あります。また自分の場合は思い込みや固執することがあるので気をつけたいところです。人と交わって一緒に成長したり、何か役に立つと思うなら考えずに動けたらよいと思うこともありますが、現実を即座に把握する能力を身につけたいです。



セルフ・インタビューについてどう思いますか?


自分というものがどこにあるのかを問いただすことで、先が見えたり分からなかったことに気付けたりするのかと思っていましたが、ぐるぐると堂々巡りをしていてなかなか自分の思考パターンから抜け出していないように感じます。頭の中で世界をつくり出したら、その小さな世界で終わる気がします。本当のことは目に見えないのではなく、観るということをしていないのだと思います。



言葉から離れた質問になっていきますが、何か行動を起こす時に考えていることはありますか?


形にすることや時間のリミットがあるものに向けて動くことが多いですが、長く持続させる為に動くこともあります。短期間でも自分1人だけでつくることは少ないですが、継続しようとすると自分1人でということにエネルギーを注ぐ気持ちが薄れます。何かを伝えるということは、伝える内容に責任を持てるかどうか、また覚悟も多少必要なことかと思います。わかりあうのに時間を要し、わかりあえるということがないというのを前提にしながらも、今出来ることを黙々とやるということが姿勢だと思います。



どういった人になりたいと思いますか?


幅や広さがありながらも、自分が出来ることはこれだと全力で向かい、自分をさらす人に魅力を感じます。そうなりたいです。もがくことも、育つために必要な糧であり自然なことなんだと思います。


植物が育つために水をあげないと育たないことや、光がいること、この家で学べることも楽しんでいきたいです。水やりを忘れて自分のことにかまけていたりするのが自分勝手というのだろうと、植物や近所の人に教えてもらっています。



言葉の解釈について、何か思うことはありますか?


伝え方によって誤解が生まれたり、読み取る側の環境、状況によると思います。


言葉がただ通り過ぎていたり、言葉そのものを成り立たせるためにロジックにはまったりすると会話ではなくなるように思います。そのもどかしさを身体が埋めてくれるのだと思いますが、対面できちんと相手に向える時間を持つことが少ないなと思います。



身体でコミュニケーションをとるということが、出来ると思いますか?


どうしても分かち合いたいことがある時、表情だけでわかりあえたと思う瞬間があります。生きてる限り身体が完全に止まるということはないので、身体は発しながら受信している装置であり、その感覚を研ぎすましているかいないかで共有出来る範囲も変わってくるのかと思います。「本当に触れるということ」を一生の内にわかることが出来たら、幸せなことだと思います。



人前で踊るということについて思うことはありますか?


先日看護学校でのクラス後感想で、人前で動くことに恥ずかしさや抵抗があったが動かしている内に楽しくなったと数人から聞きました。「見ている=見られている」、「サポートする=サポートされる」関係性であると思っています。単純に踊ることがしたくて、それが前に出るということでした。ただスタッフとして舞台やワークショップに関わることもしています。どちらも必要な存在であると思っています。テクニック的にこういう立ち方や間でないと、人に見てもらえないということはあります。けれど集中して動いている時は、その場にいる人や物に自ずと反応して動いているといえます。そこで場をつくるという共同作業をしている感覚があります。どちらも合わせるではなく自然に合わさって、時間と空間を掴んでいる。最近山にある祠の前で、何かがそこにおられるという気配が漂っていて近づきがたく感じ足を止めました。人にもそういった発している何かがあるように思います。それは普段あまり生活の中で使っていないように思います。



過去、現在、未来について何か最後に思うことはありますか?


以前人の依頼で瓶にUSB を詰め、海に流した言葉がありました。


流れた先で写真とともに言葉拾われるかもしれないし、海の底にしまわれる言葉かもしれません。



憧れというものに背を向けて


いつかまた会いましょうと


どこかの世界にゆだねる


かつての記憶と引き換えに


新たな時間というものを飛び越えるために



今ここに書くのは、書いた時の自分は捨て去れただろうと思うからです。


背を向けるというのは、そこにまだ気持ちがあったということです。


新たな時間は今のこと。


未来は飛び越えた先にあります。

セルフクエスチョンを載せる理由

 私は自分のことを詮索されたり、固定観念を持った目で見られることが苦手です。自分もするくせにです。こんな性格でありながら、何十年も人前で踊らせてもらったり、挙げ句の果てにお芝居をしたり歌ったりもさせて頂いてきました。




三歳の時にクラシックバレエに出逢ったのですが、音楽がある店の前を通ると踊っていたので両親が習わせてくれたようです。他に習った水泳は高学年頃トラウマ的水恐怖症になり、ピアノはペンギンのうたという変わった曲をやった事しか覚えていない始末です。

五歳の時に左脇を縫う大手術をし、直後も声が出ないかもしれないと医者に言われていました。その後も病気することが多かったので、何故か十六歳で死ぬと思っていました。

純粋に好きだからという心に従って身体が動きたいように動くことが、私にとっては良かったようです。今は有り難いことにとても元気です。

今回セルフクエスチョンを公開しようと思ったのは、理由があります。

十年くらい前、自分のことを知って貰いたいと友達に色々話すようになりました。

ダンスを通じて出逢った人達の中には、兄や姉みたいにあたたかく接してくれる方々や仲間がいます。(間違いなく)

ただ最近大人数の中に友達や仲間がいても、孤独を感じることがあり、自分は相槌を打ったりアホでとんちんかんな事を言うだけで、自分という人間が何を考えているかを見せずにいるから深い話が出来ていないんだと思いました。

このセルフクエスチョンは、留学時代にジェニファー・レイシーという先生の授業で聞き、帰国して数年経ってから書いた文章です。

五年前から色々あってSNSには自分の心情をあまり書かないようにしてきました。ネガティブなことは特に書かないでおこうと思っていました。これからは気にしつつも、自分がもっと楽な在り方でと思っています。

セルフクエスチョンはあの時の私の暗さも含めて認めていくような内容です。今は別の作業をしながら、自分を掘っています。

いつでも力をもらう文章があって、それを共有したいと思います。(勝手にすみません)

2019 年又吉直樹さんの『やぁ』、朗読会では客も含め全員で朗読して年越しを迎えました。クラッカーをはじめましての隣りの方と一緒に鳴らそうとして、一つ不発になって余計笑ったことも覚えています。

その文章は、

「平凡な風景 退屈な日常 陳腐な言葉

それこそが幸福の正体だった」からはじまります。


「見たいものをみよう 聞きたい声をきこう

行きたいとこにいこう 好きなものをたべよう

楽しい 楽しい 時間のはじまり」


読んでる時に、暗い気持ちがあったとしても明るくなります。


『人間』の中で、

「一秒をこの瞬間も一秒で過ごしているということが、最も身近にある奇跡」

と話されるところがあって、そこも好きなのは何回生きたとしてもこの二人はこうやってその瞬間をグッと一秒にするんやろうなと思えるからです。(また勝手ですが)

加筆部分には、ぐさぐさとまだ刺された感覚があります。以前読後にこうメモしていて、影島を応援したくなるのはこの凄さがあるからかなと今は思っています。これは西さんとの対談などを聴いた後に書いてたような気がします。

「全力でやり過ぎて血を出して、周りから浮いてはみ出しても、その人にとっては真っ直ぐな道をただ行く。思った瞬間やらなかったら、思ったということも、そう思った自分も嘘になるから。」

その人にしか書けない、言えない言葉があり、曲と歌声によって粒を変えたり、身体を震わせることによってひきあうのだろうなと思います。

それぞれの喜びがたくさんある日々が続くようにと願います。