勝手な感想

 名付けようのない踊り 2022.1.28


 大きな弁天桜の木の下で踊る姿をみて、なにもない場で木にもたれるように佇み、泯さんが樹木になっていくような時間を思い出した。それは風景ではなく、実際には突然どこからか至近距離でそびえるように立つ姿に驚いて、私がそう思っただけのことかもしれない。   


「その時そこにどういればいいかを考える」たそがれ清兵衛の映画を観た時は、武道の達人のように足はしっかり地面についているのに身は軽く、立っているというよりゆらりゆらりと滑るように歩み、間をずらすように斬り掛かる恐ろしい存在という印象だった。そのシーンが出てきて、踊りだとあらためて思った。あの絶命するところは瀕死の白鳥より生々しく、かつ人の身体はこんな風に曲がるのかと驚いた。


「場踊り」居着くとは違う感覚で、そういう状態に自然となっている身体がそこにある。ただその身体は反応で動くのとも違って、どこにでも動けて、そうなるからなる開いた身体にみえる。外で過ごしているうちに自分の内側の世界にも潜り込み、全てが繋がっていくような体験を子どもの時分に体験している人も多いかもしれない。踊りはずっと誰にでもできて、とても広義な意味があると思ってきたが、映画のなかでこれは踊りではなくてなんなんだろうと考える瞬間もあった。


「私のこども」何本もの糸でたぐりよせられた記憶と、そこで今流れている時間とが混ざりあい、私と何かが生き返っては死んで、生まれ変わっていくようだ。めまぐるしい細胞の活性を大きな虫眼鏡をもってじーっと緊迫して見ているようで、それは途切れる事のない1つの流れのようにも思えてくる。映画の場合はこちらが見ているといえ、監督の視点を借りていると言えるのかもしれないが、目の前で踊りがおこるとあらゆるものが取り込まれた呼吸のような循環がおこる。


「頭上の森林」のシーンで落語のあたま山みたいだなと思っていたら、アニメーションが山村浩二さんだった。大変な作業だろうと想像する。空想から感覚の中へとあったが、頭上の池に身投げするのではなく、身体の中に湖を取り込んだり、耳の鼓膜の奥までがざわざわするような感覚が映像になっていた。


「踊り手は、あらゆる速度を選択できる」波うち際で手を広げている姿は海を見ているようだった。自分の心臓の速さや音を忘れるような時間だった。