朗読会



又吉直樹さんの朗読会に今日行ってきて、昨年末に書いたメモを思い出しました。
両日村上健志さんも出られていて、日々書かれているメモと声について話されました。
昨年は向井慧さんが司会をされ、ファビアンさんも書かれたショートショートを朗読されました。
幾つか記憶に残りながらもどうしても忘れている部分があったり、今の心境で聴くので今日は同じ話でもまた違った印象を持ちました。
『人間』の中でも書かれている作中で誰かが死ぬこと、また死を排除することや、平凡と変わっているということ。記憶に潜む真実と虚構などまだまだ考えたい事柄が言葉の中に沢山ありました。 村上さんのお話は人をシニカルに斜めから見る視点を更に俯瞰的に眺めたり、かと思えば距離感を縮めたり、俳句の様に目前と遠い風景を繋げスケールを変えたり、展開が面白く繊細さも伝わってきました。
昨年「怒りをぶちまけていい国」を拝聴した時、私は家族の怒りが別の方向にいくことを願っていました。だからメモは怒りではない国も書いています。今も変わらないのですが、発せられなかった言葉はどこにいくのかを時々考えることがあります。例えば友達が言いよどんだ時、告げない選択をした背景を想像したりします。告げなかった言葉も無駄ではなくていつか別の言葉となって出てきて欲しいと思うことがあります。言葉が意味を持ちはじめたのは誰かに贈る為で、正確に伝わらなくても伝えたいという意志から発せられ、贈られた側は言葉と行間にある身体を読んで相手の気持ちを知っていったんじゃないかと考えたりします。今よりあらゆる感覚を使って、ちゃんと傾聴していたかもしれません。メモはまだ完成出来ませんが、日々と朗読会の話が繋がっていけば先があるのではと思ったりします。

〈メモ〉※お話された内容ではなく、聴いたお話を咀嚼する為のメモです。

怒りの国では誰も彼もが底知れない怒りをぶちまけている
それを新しい国ではクレーマーと扱い、怒ることに対して怒っている
国では怒り心頭とばかりに皆の怒りを高らかに大声で叫ぶ者の声が響き渡っている
小声で怒る者の声が私の耳をざわつかせて、眠りにつく前に忘れようと笑いの国を検索する
笑いの国はここから遠いが行こうと思えば行ける距離にある
怒りの国は悲しみの国からやってきた者が多い
悲しみの源は湖の底に沈んでしまったのに、未だ欠片を捨てきれずその美しさを誇っている
それは大事なものだから取り上げると怒りはじめる
怒りに怒りで返しても優しさで返しても切なさがうまれる
怒りが生きるすべとなり立ち向かう武器になってしまったら、話すこともなくなる
だから怒りが過ぎ去って小言になるのを待ち、一日の終わりに笑いの国を考える
笑いの国は悲しみや怒りの国から来た者もいれば、笑いの国で生まれた者もいる
笑いの国で生まれた者の笑いは笑いの国の中だけで、他の国では見れない
それは純真な笑い人でしか笑えないらしい
怒りの国のパスポートを持ちながら旅行すると煙たがられたりする
だから怒りは踊りやラップに形をかえて他の国で受け入れられた
けれどまたそれが怒りの国では怒りの対象となり規制されている
怒りが増えると狂いの国に行かされる為、薬を飲み緩和する者もいる
けれど本当に怒りを和らげる薬はなく、身体の痛みを伴うこともあるので皆使いたがらない
狂いの国はパスポートがなく、狂いの国の者は他の国に大抵紛れている
狂いの国の者は他の国にいても居場所がないと言われている
だからいつの間にか発行された切符を持ち、狂いの国を目指していくのだ
私は狂いの国の者に一度会ったことがあり、狂いの国は何てことない道に続いていて、突如現れるのだと聞いたことがある
怒りの国では怒り以外に興味はあるが、怒ることの他に発散する方法を諦めてしまう者もいる
怒りの中には妬みや嘲りなどもあるが自嘲もある
突如現れる狂いの道の他に優しさの国は全ての国に繋がっている
優しさの国は境界線を設けていないので、優しさを持てば入れる
優しさの国にも根っからの優しい人もいて、優しい人は絶えず旅をして布教している
怒りの国にいながら優しさの国にいつでも行けるが、根っからの優しい人のように常に優しさの国にいるのは容易ではないので、布教活動に混じるところからはじめる人も多い
私はクレームの国に足掛けしながら笑いの国に憧れ、優しい人に時折出会っている
家族がクレームの国にいる間は聞き続けると決めたが、優しさの国を行き来しながら笑いの国にいつか住めたらと思っている
笑いの国は思いもよらなかったことを面白くして笑いあえる人が沢山いて、笑いの頂点を決める大会もある
私はどんな者にも居場所は開かれているんだと、切実さを持って笑いの中で叫ばれているような笑いが胸に届いた時に、喜びの国にいく
喜びの国は飛ばないと行けず気付いたらいる場所なので、国としては人口が少なく実際には国ではないので、幻の国と呼ばれている
信じれる何かを見付けた時に嬉しさが込み上げ、幻の国が見えやすくなるらしい
そこでは国という概念もなくずっと前からあったので、あらゆる国と平行して並んでいるらしい
怒りの国では信じる者は救われると叫んだ瞬間に、何を信じてるのか突っ込まれる
そこで揺るぎなく信じれることを一つ大きく叫んだら、疑問となり称賛となりざわつくので、怒りの国には居づらくなる
そうやって国を出た者は冷ややかな目を向けられながらも、どこか嬉々としている
怒りの国はやはりずっといる場所ではないのだろう
だけれど怒りに身をまかせ生きてる者も、見方を変えれば何かを信じる者なのだと思う
その信じることのために戦って怒ることもある
怒る者も怒りを受ける者も悲しむくらいなら、怒りの国なんて要らないけれど今もあるのは、怒りが複雑に色んな感情に関わるからだ
怒りは外に投げても返ってくる
返ってきたものが増えると怒りの種が見えなくなる
怒りの種を見付けるのも面倒になって、何かに怒ってる方が楽なようになるが次の怒りの種を見付けないと不安になる
種がないと生きてる気がしないという者もいる
怒りは返ってくるので怒りの分だけ顔がどんどん歪んでいく
ある日怒りが自分の内にはなく外にもないと気付いた時に、怒りの国が消滅する
怒りの国が百年経ってなくなるとしたら、今は怒り以外の方法で新しい国を築くことを考えなければならない
怒りの反対のことをすればいいという単純なことじゃ国をつくっても皆飽きてしまう
複雑な感情を誰かに話すなんて出来ないと思いながらも話してみると、源流にあるものは何年経っても変わらないのだと気付くだろう
君という存在のなれの果てが国で宇宙で時間なのだ
口を開けた瞬間にもう飲み込まれている海に溺れている暇なんてない
君を友達だ恋人だ最愛の人だと言う人にもしも会ったら一緒に国をつくればいい
怒りの中で疾走したら君は誰かと国はつくれない
夜寝る前に見たい景色を思い浮かべて一緒にいる人がいたら、その人はどんな顔をしながら君を見ているだろうか
多分一口で言い表せないような顔で「おかえり」と言うだろう
君が「ただいま」という間に君が複雑な感情を知って、泣いていたのをその人は知っている